習慣進化
支持されるには、遅れたものでも、早すぎるものでも駄目だ。
最も多いのは素人とか平均的な層であるから、斬新すぎるモノは理解して
はもらえない。
それが支持されるか批判されるかという線引きは時代によって変わる。か
つては理解されなかった思想や商品も、より過度な比較対象が生まれて、
それが認識されることで次第に支持されてゆく。
「単純なA」と「難解なB」というモノがあるとする。
その時点でBはヒトから敬遠されているが、後に、「更に難解なC」というモ
ノが現れることで、次第にBが難解だと判断されないようになって行く。
より過度な存在を認識することで、[慣れ]が生まれる。
ヒトは比較対象がなければ優劣を判断できない。相対的な判断で世界は
作られている。強引にでも比較対象を作り上げて優劣関係を明瞭に示し
たがる。勝ち組・負け組という様な概念を掲げたがる。
悪役を担ってくれている存在への感謝の念を示すこともなく排除の意識
を示す事は、世界の根底にあるルールを無視したものだ。悪という存在
だって尊重せねばならない。
比較対象は絶対に必要なものだ。それが無いとヒトは判断力を失ってし
まう。悪い見本があるから、ヒトはそれを見て、より良い状態を計れる。
「悪の排除・撲滅」を掲げる権力階級の言葉が、果たしてどんな思想や
立場で発せられているかを見極める必要がある。これは非常に難しい。
そんな権力階級の意思が直接反映されるような公共放送の現状では、
インターネットの情報発信は価値を増す一方だ。この2007年の今、報
道のあり方の歪み具合に恐ろしさを感じる。
公共の電波では流れないような過激な情報に慣れすぎた人々は、そ
の精神を良くも悪くも進化させてゆくことだろう。
凄惨な事件の現場や、グロテスクな映像に平然と視線を向けていられ
るようになることも「慣れ」という一種の進化だ。
幼い時期から、ネット利用によってフィルターを通さない情報に触れて
きた世代は、今後世間を騒がせる事となるだろう。
その進化が人々にとって快いモノか不快なモノか利益になるか損害に
なるかは、受け手の立場や価値感次第だ。誰かが苦しんでいるって事
は、誰かが喜んでいるって事だ。
刺激に慣れすぎた人々は、更なる刺激を求めるだろう。ネットという規
制の少ない情報ツールの浸透により、TVでは物足りなくなってしまっ
た人々。
その悪循環によって、嘘が混じろうとインパクトを求めようとするTV製
作者の意識が捏造番組の騒動を生んだ。
せめて客観的な視点で眺める事を忘れない精神の育成を…。
upload date '07.11.26